鬼描き

nirabook
一応、形式的な最後のお別れをしてきた。

「鬼を描くと、鬼に呼ばれる」という言葉が、どこからの引用だったか忘れたけれど、鬼を描くことを生業にすると決めた時から、覚悟としてずっと自分の中にある。
むろん鬼描きでなくとも世の中に理不尽な死はゴマンとあるし、夭逝された先達が皆そうだったという意味でもない。ただし鬼に触れている以上、鬼に呼ばれたとしか思えない最期を迎えるのも詮方ないという思いがある。
多少オカルトめいているが、理屈で説明するのは難しい。

鬼は現実には存在しないものだから、鬼を描くということは、己の内にある鬼と向き合い、闘い、ねじ伏せて、その骸を吐き出すことに近い。
鬼を怖く描けるのは、己の中の醜さと向き合い、美しさを知るからだ。
鬼を逞しく描けるのは、己の弱さと向き合い、優しさを得るからだ。
だから鬼描きは、鬼を吐き出し続けることで、実は誰よりも健やかでいられる。穏やかでいられる。
それについては、確かにニラサワさんがそうだったし、野口竜さんにお会いした時にも強く感じた。自分の知る限り、鬼を描く人で悪い人はいない。

けれでも、鬼描きが生きて行くためには、吐き出すための鬼を飼い続けなければならない。己の内に鬼が居なくなれば、探してでも連れてこなければいけない。つまるところ、鬼描きは常に鬼を求める。自分をとことん追い込んで、追い詰めたところでしか鬼は応えてくれないから、いつもそういう状況に身を置き、命を削る。悲しみも憤りも、鬼の糧として貪り食う。
そんな人間が、真っ当な人生なんて得られるわけがない。少なくとも自分はそう確信している。
金儲けしたいとか、幸せな家庭を築きたいとか、人並みな夢や希望を棄てられない生半可な決意でこの道に入門したつもりはないし、引き返すつもりもない。

たとえ戦隊のギャグ回怪人だったとしても、そういう覚悟で描いてるんですよオレ。
そんな話を、もうちょっとしたかったな。