ごく個人的な訃報

去る1月2日に、母が亡くなりました。
突然のことではなくて、2年ほど前に患った大病の末でしたから、まぁ覚悟の上というか時間の問題だったわけですが。

ここに目を通されている方はご存知かと思いますが、オレは昨年の夏に沖縄に転居しました。四半世紀に及ぶ社会人としての生活の場であった関東を離れるのは簡単なものではありませんでしたが、むしろその障害となるような重いものを捨て去ろうという意識もありました。
ただ、どうしても捨て去れないのが母の存在でした。

母は7年ほど前から継父と共に埼玉に居住していました。生家のあった鹿児島と比べれば目と鼻の先のような場所だったものの、電車で1時間半という微妙な距離感と、ちょうどその頃こちらに子どもが生まれたことも手伝って、逆に疎遠になっていきました。
すぐ近所に叔母夫婦が暮らしていて、よく面倒をみていただいていたので、それにすっかり甘えていたのもあります。

一昨年の夏、母の病気が発覚しました。末期の大腸癌でした。手術で危機的な状況は脱しましたが、既に転移は抑えられず「年は越せないかもしれない」という余命宣告も受けました。その後は良くもならなければ悪くもならないという均衡状態ではありましたが、楽ではないにしても普通に生活を送れる程度に奇跡的に回復していました。
ただ皮肉なことに、それを支え看病してくれていた継父の方が先に肺癌で亡くなってしまいました。それが昨年の初冬のことです。

3.11の震災は多くの方々の人生を大きく変えたことと思いますが、オレもその例外ではなく、これからの身の振り方を色々と思案しました。そして出した結論は「母を含む一家全員で沖縄に転居する」というものでした。こうして書くとすっきり丸く収まった感がありますが、実情は決してそうではなく、関わる人間すべてが大きなリスクを背負う難儀な道でした。それをオレは強引に、「子どもとは暮らしたいし、母もきちんと看取りたい」という本当に自分勝手な思い、ワガママだけで押し切ってしまいました。

ただ、それでも、母は苦言の一つも漏らすことなく、オレに付いて来てくれました。
そして、たった4ヶ月後に、この慣れない土地で息を引き取りました。

ひどく気を遣う人でしたから、オレに精神的な負担をかけまいと、早く逝こうとしていたようにさえ思えます。自分の足で歩いて病院に入り、どうだと言わんばかりに宣告された期限からきっちり1年間を生き抜いたところで、入院してわずか5日目に静かに逝ってしまいました。
正月休みに入っていたので、未明に入った急変の連絡にもすぐ対処できましたし、本望通りにしっかりと見届けることもできました。葬儀をして欲しくないという意向を受けて火葬のみ行ったのですが、鹿児島に住む母の兄弟も埼玉でお世話になった叔母夫婦も、全員が揃うことができました。
そこまで綿密に計画していたとしか思えないような、立派な最期でした。
それを裏付けるように、母の部屋の整理を始めて分かったことですが、遺品の処分先まできちんと整理されたメモが残されていました。報告する方々の一覧や、やらなければならない手続きや段取り。それにかかるお金までもが用意されていました。

もし人の生き方に点数を付けられるのなら、死に方としては百点満点でしょう。
ただただ、頭が下がるばかりです。

夢だった声楽への道を祖父に反対され、ヤケになって売れない絵描きと結ばれて家を出て、早々に子どもを設けた…。
それからの母の人生の大半は、オレを支えるためにあったように思えます。それだけを生き甲斐にしてくれていたように、思えます。
「いいひとだったけれど、心が弱かった」実父と離別して、オレを片親にしたことを負い目に感じていたのだと思います。とにかく、もうずっと、オレが成人してからもずっと、ひたすら過保護で、オレを甘やかせてくれた人でした。手紙をくれると、いつもかならずお金が挿んであって、オレの方が収入多いのに仕送りもしてなくて申し訳ないから止めてくれって言っても、やっぱり次の手紙にもお金が入っていました。

本当に優しかった。

おかあさん、ありがとう。
親孝行できなくてごめんなさい。
そのことを、生きてる時にちゃんと伝えられたことだけが良かった。