葛西さんのこと

2日間だけ東京に行ってきた。古くはメタルダーで、今もゴーバスターズでお世話になっている、企画者104の[葛西おと]さんが亡くなられたからだ。本当に、本当に突然のことだった。あまりに突然だったから、先日母が亡くなった時よりもショックが大きかった。そういえば、そのことを気遣ってわざわざ電話してくれたのが、最後の会話になったのか。

葛西さんの仕事のことを、実はあまりよく分かっていない。企画会議への参加を代行するような形で進捗の報告と時にはこちらの意見をぶつけてもらい、最終的にデザイン画の受け渡しの窓口になってもらうというのが自分にとっての主な内容だが、それは葛西さんの仕事のごくごく一部でしかない。
今でこそ[資料担当]とクレジットされているけれど、実際には仕事の内容があまりにも多岐に渡っているため、苦肉の策としてそうなったと聞いている。
常に企画と現場の両方を行き来して、ご本人があまり表に出たがらない気質だったからか、まさに縁の下の力持ち…というか、いつも縁の下にいてニコニコしてくれていた、ような印象がある。そしてたぶん、これまで戦隊やメタルヒーローに携わってきた多くの人たちが、それぞれの仕事の中で、その存在に助けられてきたのだろうと想像する。

オレがまだ学生の頃、メタルダーの手伝いができることになって、師匠の雨宮さんから「東映に打ち合わせに行って来い」と一人放り出された。初めての東映。初めての打ち合わせ。そんな自分にとっての初仕事として向かった、東映本社の2階にかつてあった喫茶店で、初めて会った人こそ葛西さんだった。
きちんとこなせるかどうか不安でいっぱいだったオレに「大丈夫、大丈夫。できる、できる」と、なぜか2回ずつ繰り返す言葉で励ましてくれた。
そしてその言葉を、いつも自分の仕事に自信がないオレは、それから25年もの間、ずっと聞き続けることになった。
決して無責任に言い放っているわけではなかった。その言葉の裏には必ず「(私が)なんとかする」という思いが込められていたからだ。

ゴーカイジャーの仕事の途中で沖縄へ移ることを決めた時、オレはデザインの仕事を辞めるつもりでいた。自分勝手な理由で現場を離れるわけだから、むしろクビを切られる覚悟だった。そのことを最初に伝えたのは、やはり葛西さんで、そしてやはり同じ言葉をかけられた。
「大丈夫、大丈夫。できる、できる」

思えば、ずっと助けられていた。

さして才能もなく、画力もなく、遅筆で、頭が固くて、文句の口数だけは多く、人付き合いの悪い、そんな自分がこれだけの長い期間デザインの仕事をして来れたのは、少なからず葛西さんの口添えがあったからだと確信している。近年は、むりやり席を設けてくれたんじゃないかと思うことすらある。
その好意に甘えながらも、老害として作品の質を落としてはいないかという不安は募っている。
そして、またあの言葉を聞く。
最近はもう、励ましというよりは、挨拶のようになっていたけれど。