No.4 /Vol.6 「キリンの帰る日」

 その日、妻の初江は、不機嫌だった。

「理沙ちゃんから、連絡はあったの?」
 初江はただ、首を振るだけでそれに応え、キッチンに引き込む。よく見えなかったけれど、どことなく思いつめた表情をしていた。
 ボクにとって義理の妹である理沙ちゃんが蒸発して、もう2週間になる。心配する彼女をなだめる言葉も、もう全部使い果たした。『ボクらが心配したところで、どうにかなるわけでもない』・・・分かってはいるけれど、もしかしたら口にしてはいけなかったかもしれない究極の諦め言葉に、一度は妻も納得してくれたはずだ。
<先週の運動会の時だって、あんなにはしゃいでいたじゃないか。打ち上げのカラオケで最近の流行歌を熱唱しまくってたのは、他でもない彼女なのだ。あれを『辛さを紛らすためのお芝居だった』なんて言われても、信じないぞボクは。絶対に。

 妻の気配を横目に感じながら、ボクは恐る恐る寝室へと滑り込み、ようやくネクタイを外した。
 今となっては滅多にあることではないが、ちょっと前まで、そう、隆章が生まれる直前までは、初江は帰宅したボクに寄り添い、脱いだ背広をきちんとハンガーに架けてくれたりしたものだ。
<慣れるとは、そういうことだ。誰も居ないクローゼットの前で、ひとり着替える自分を発見した時に覚えるこの侘びしさにも、いつか慣れる日が来るだろう。いや、来る、はずだ。
 と、その時、初江が突然寝室の扉を開けた。
 ボクには訳が分からなかったが、妻はボクの、特に下半身に注目している。そして、意味ありげなため息をひとつこぼすと、振り返り際にこう捨て台詞を吐いた。
「ちょっと話があるから、お風呂は後にして」

<おいおい、ボクが何か悪いことしたって言うのか?天地天命に誓って言うが、ボクには妻を怒らせるような覚えはさっぱり無い。もし何かで彼女が腹を立てているとしたら、それは紛れもなく誤解だ、という自信がある。そうだ、もしかしたらあの言葉のことを根に持っているのかもしれない。ボクがなんて非情で冷酷なのかと感じてしまったのかもしれない。でもそれは、心労でやつれた妻をいたわるボクの誠意でもあるのだ。それこそ、つまらない気持ちの行き違いなのだ。それに、万が一ボクに原因があったとしても、それはたぶん、夫として父親として、彼女がボクに期待してくれている裏返しでもあるのだ。だから、それはそれでいい。それで、いいのだ。
 ボクはステテコ姿のまま、自分にそう言い聞かせた。けれど、ダイニングに向かう足は、やっぱり重かった。

「隆章が、幼稚園で、いじめられてるみたいなの」
 2階で隆章が寝入っていることを確認すると、初江は噛みしめるようにそう呟いた。
<カエルの子はカエルか。
 ボクは思った。ボクにもかつてイジメられた経験がある。というより、ボクの幼年期はすべてイジメられっ子としての記憶でしかなかった気もする。ただし、ボクの場合は、イジメられるに相応しい理由があった。つまり、混血児で私生児という、分かりやすい理由が、だ。でも隆章は違う。ボクと違って生まれついての白髪ではないし、言っちゃあ何だが、ちゃんとした両親も居る。親のヒイキ目を抜きにしても、明るいし素直だし頭も良いし運動神経だって良いはずだ。なにしろ4歳にしてもう補助輪なしで自転車にだって乗れるし、あやとびだって出来るのだ。
「それが、どうもパパのせいみたいなのよ・・・」
「ちょっと待ってよ。どうして、ボクのせいなんだよ?」
「・・・パパがその・・・老けて見えるから・・・」
 ショックだった。ボク自身がイジメられたのは分かる。十歩、いや百歩、いや千歩譲って、その血が隆章に遺伝されていたとして、彼がその苦難の道を歩まねばならないのも、なんとなく分かる。いや、やっぱり分からない。隆章は良い子だ。どこに出しても恥ずかしくない子だ。そう、隆章に原因はない。でもだからって、やっぱりボクのせいなのか。ボクがイジメられるばっかりに、隆章まで迫害されねばならないのか。
「ほら、こないだの運動会で、パパ転んだじゃない、ムカデ競争で?その転び方がね、すごく変だったらしいのよ。それがユリ組でも評判になったみたいでね・・・」
「え、ボク、そんな変な転び方した?大体、それが老けてるのと、どう関係があるのよ?」
「だって、ミサトちゃんのお母さんとかも言ってたし・・・」
「いや、違うよ、だってアレはさぁ、前にいたアレ誰だっけ・・・あの人がバランス崩したんだよ。本当だよ。証拠見せたいけどさぁ、キミだってボクの晴れ舞台で、ビデオ撮ってないんだもの」
「そんな事言ったって、隆章がトイレ行きたいって言うから」
「何?じゃあ、キミ、見てもいないんじゃない、ボクの晴れ舞台。いや確かに転びはしたけどさ、せめて、見るぐらいはしてくれてもいいじゃない?それに、隆章だって一人でトイレぐらい行けるじゃない・・・」
「まぁ、それはともかく・・・ほら、あの、キリンのことだって・・・」

 キリン、というのは、運動会の打ち上げへの途上で寄ったオモチャ屋で買った、変型するロボット玩具のことだ。最近テレビアニメに興味を持ち出した隆章は、この『ビーストウォーズ』という動物がロボットに変型するオモチャをやたらと欲しがる。その日は隆章がかけっこで1等賞になったお祝いに、隆章が欲しがっていたキリンやらタヌキやらのオモチャをたっぷり買ってあげたのだ。過保護と言われようと、たまにはそういうのも必要だと、吉岡たすく先生もおっしゃっていた。
「あれはさぁ、難しいんだよ、隆章には・・・」
「でも、タカネくんのお父さんとかは、説明書を見なくてもちゃんとロボットに出来たじゃない」
「タヌキの方は簡単だからさ。キリンは難しいんだよ。それに彼まだ若いしさぁ・・・」
「パパと1つしか違わないみたいよ」
「あ・・・そう・・・」
 ボクはダイニングテーブルの側にあった隆章のオモチャ箱から、件のキリンを取り出した。確かにキリンの首やら脚やらは付いているのだが、さっぱりなんだか分からないカタチになっている。もっとも、隆章が気に入っているのは、キリンの首の内側に付いた伸び縮みするマジックハンドだけのようで、それだけあればロボットだろうとキリンだろうと、どうでもいいらしいのだ。先日、妻方の父が買ってくれた『ゴーゴーファイブ』のロボットでも、やはり同じような遊びしかしない。
「タカネくんが、もしかしたら言いふらしてるんじゃないかな。あの子、そういうとこあるから・・・でもね、思うんだけど、やっぱりパパにも責任あると思うのよ。私だって『鈴木さん『どうなってるの?』の歳の差カップルに出れますね』なんて言われたくないもの・・・若づくりしろ、って言ってるんじゃないの。歳相応にしてって言ってるのよ。パパだってまだ32よ。」
「ボクはそのつもりだけど」
「32でステテコは無いでしょう?」
「あ・・・そう・・・かなぁ?」
 自慢じゃないが、冷え性のボクは高校生の時からステテコを愛用している。筋金入りだし、年季も入ってるのだ。
<しかも結婚して6年、今までそれに触れたことは一度もなかったじゃないか。今はいてるやつだって、自分がイトーヨーカドーで買って来たくせに。
 ボクは悔し紛れにキリンをいじってみた。でも、どうにもならない。ちょっと無理に力を加えると、肩や尻尾がポロポロと外れる。説明書は残しておいたはずなのだが、どこにも見当たらない。
<多分この脚がこっちに回って・・・そうすると今度は胴体が反対を向く・・・いや、反対じゃないのか?
「とにかく、ステテコは止めて。私、明日全部捨てるからね」
「・・・捨てて来?」
「冗談やめてよ!私、本当に怒ってるんだからね。パパだって隆章に嫌われたくないでしょ!?」

 その時、遠くでベルの音がした。目覚まし時計のアラームのような・・・
<そうだ、あの、タヌキだ!
 タヌキのオモチャには時計が付いている。普段は信楽焼のタヌキの置き物になっているというフザケた代物なのだが、この時計はちゃんとした目覚まし時計になっていて、変型させてロボットにしないとアラームが鳴りやまないのだ。満足に変型させることができない隆章には、絶対にスイッチを入れちゃいけないと念を押したはずなのに。しかも、こんな時間に・・・
 ボクは慌てて2階へ駆け上った。アラーム音は、確かに隆章の部屋から聞こえる。いつの間にか、初江もボクの後ろにいた。
 すると、ボクらが隆章の部屋の前に着いた途端、アラームが鳴りやんだ。
 そっと扉を開けると、寝ぼけ眼の隆章がベッドの脇に立っていた。
「パパ、おかえり」
 そう言うと、隆章はボクの脚に寄り添って来た。その手には、きちんとロボットに変型させた状態の、タヌキが握られていた。
「パパもキリンに出来たの?」
 その言葉に、ボクはふと手にしていたキリンを見ると、何かのはずみで、確かにそこにキリンの輪郭が見えて来ていた。

<この子は、しっかり成長している。それに、ボクだって、まだまだ変われるはずだ。
「パパだって、まだまだ、これからだもんね」
 初江もそうささやくと、ボクの背中に身を寄せてきた。

[この物語はフィクションです]


TAKARA / BEAST WARS


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