No.7 / Vol.9 「地を這う翼」

「父さん、俺のバスだよ」
 話しかけても、父は応えない。
 見た限りで言えば、その姿は死んでいるのと変わらなかった。ベッドの脇に設置された生命維持装置のか細い鳴動だけが、かろうじて生存の事実を伝えていた。

 十年以上も入院生活が続いた父が、数日前から昏睡状態に陥り、集中治療室に入ったと母から連絡があったのは、先週末のことだ。僕は取り掛かりの仕事を放っておくわけにもいかず、電話口で涙声になる母の忠告を無視して、病院に行くことを拒んだ。
<来るべき時が、来ただけじゃないか。
 それがたまたま、来月にある政府広報パンフの予備プレゼンと重なっただけのことだ。所属するデザイン事務所にとっても、僕個人にとっても、この仕事は決して小さく無いステップとなる。そのことを理由に、僕はこの病院を訪れるのを遠回しに避けたのだ。
<来るべき時が来ただけと、納得できずにいたのは僕の方だったのかもしれない。
 僕が訪れた時には、父の身体は既に一般病室へと移動されていた。もう、手の施しようがないのだ。

 父の病室からは、海が見えた。どんよりした、ダークグレーの海だ。
 昨日から降り続いている重い雨は、本来なら透き通る青さを誇る房総の海と空の境界線を、ひどく曖昧にしていた。
 僕はその窓際の、父の眠る枕元に、先日クライアントから届けられたバスのミニカーを置いた。日本初の連結式通常路線バスを記念して作られたものだそうだ。そして、その塗装パターンをデザインしたのが僕なのである。会社の社長が「こんなことは滅多にあるものじゃないから持って行け」と、会社に届いたサンプルを譲ってくれたものだ。そして、僕はどうしてもそれを父に見て欲しいと思っていた。白内障を患い、既に視力を完全に失った父に、見えるものでないと知りつつも。

 僕は激動の時代に生まれた。
 僕の生まれた昭和47年、僕の両親は母方の叔父夫婦と共に三里塚の新空港建設予定地区へと移り住んだ。いわゆる、成田空港建設反対派による立て篭り運動である。当時、旧国鉄の社員として、国鉄労働組合の一端にあった父にも思うところはあったのかもしれないが、むしろ転居の理由としては、それ以前から左翼運動家として活動していた叔父の強引な勧誘によるものだったと、後になって母は語ってくれた。
 当時の三里塚は、空港反対派のみならず、全共闘や部落開放運動など新左翼側の拠点として、常に一触即発の危機を擁していた。僕は特にその緊張の中で誕生した初の子供だったということで、多くの運動に祭り上げられたらしい。実際、中学を卒業するまでの十数年間、僕はその姿を多くのTVニュースやドキュメンタリー映画でさらして来た。ただしその多くは、『斗争の中の無垢なる少年』という、作為的な演出を押し付けられていたようにも思う。とにかく、僕はカメラを向けられると自然にむっつりとした表情をするようになっていたし、それは今でも変わってはいない。

 父はそれ以前、バスの運転手だった。
 千葉県の鴨川市に隣接する天津小湊町の安房天津駅から、多聞寺、永明寺を経由して安房鴨川駅へ至るルート、つまり東条海岸沿いに大平洋を横目に走る路線バスだったという。今では鴨川シーワールドもあり、季節を問わず観光地として賑やかなところだ。無論、生まれる前の話だから、僕はその頃の父を知るはずがない。要塞建設のための資材を運ぶ大型トラックを転がす姿はかろうじて記憶にあるが、父はなるべくそれを見せないようにしていたふしもある。
 僕の印象の中で、父とバスが重なるのは、その話を父がよく聞かせてくれたからだ。
 三里塚公園の裏手に見晴しの良い築山の丘があって、そこでよく非番の父と過ごした。海岸沿いを走るバスのことや、子供の頃は飛行機のパイロットに憧れていたこと、その飛行機を敵としなければならないのがとても辛いということを、父は僕に語って聞かせた。そしていつも父は最後にこう言うのだ。「ここからは、海が見えないなぁ」と。

 僕は最初、このバスの仕事を断わるつもりでいた。仕事としてこなすには、あまりにも個人的な因縁が含まれ過ぎていた。もし引き受けるのなら、他の全てを投げうってでも全力で当らなければならない。
 つまるところ、僕は後者を選んだ。抱えていた都市再開発のサイン事業や、新型GPSの固定インターフェイスデザインのプロジェクトを譲って、僕はこの小さな仕事に係りきりになった。恋人である輝美とも、半年近く連絡すらとっていない。一度は結婚の約束までしていながら、おそらくこのうやむやのうちに別れてしまうことになるのだろう。
 だが、後悔はない。父の過ごした不遇の年月と、残された時間を思えば、それらは微々たるものに過ぎない。

 昭和53年、1万人を越える機動隊員との一大衝突の折、投擲されたガス弾の弾丸を両膝に受けて、父は2度と立ち上がることのできない身体になった。その時、僕と母は団結小屋と呼ばれる小さな体育館ほどのプレハブ家屋に篭城していて、機動隊に連行された父が重傷を負っていたと知ったのは、それから数カ月が経過した後のことだった。収容された病院に僕らが駆け付けた時、両足を失っていながらも奇妙に父は平然として、むしろ斗争の日々から逃れられるという安堵感を露にしていたが、その意に反して、解放されてからは以前に増して「権力による被害者」として矢面にさらされる事が多くなった。
 父が身体の不調を訴えたのは、新空港が開港し、反対派集団が内部分裂を起こした後のことだ。
 今では考えられないことだが、当時の威嚇に使用されていたガス弾は有毒のものであったとされている。一時的な呼吸困難や催涙の効果の他に、副作用として脳障害や消化器系の異常をもたらす成分が含まれていた。父はまさに、その被害を真っ向から被ることになったのだ。
 被害者連盟の起こした訴訟に国側は完全にその非を認め、父は回復までの一切の医療的保障と生活補助を得るに至ったが、その症状は悪化の一途をたどるのみだった。遂には言葉を失い、光すらも奪われた。

 僕はバスのデザインを仕上げるのに、千枚近いラフスケッチを描いた。本来ならば数点のデザインを仕上げて、コンペ形式でプレゼンを行うのが妥当な手段なのだが、僕は最初から決定デザインを1つだけ仕上げることをクライアントに約束していた。その代わりに、必ずCIカラーである白と青と赤、いわゆるトリコロールカラーを用いることを義務付けられていた。
 ただ、僕のイメージの中に、赤は無かったのである。それは父の最も嫌う、血の色でもあるからだ。だからどうしても赤い色が邪魔になった。無理に赤の要素を入れると、それだけですべてが壊れてしまう気がした。
 僕は締め切り前の1ヶ月を、鴨川のホテルで過ごした。途中、何度か茨木の竜ヶ崎へ通い、ハングライダーで空からの風景も目に焼きつけた。そこからは、あの忌まわしい成田空港も一望できた。けれども、その中から沸き上がるイメージの中に、赤い色は無かった。白と青、空と海、飛ぶカモメの翼。そのイメージだけがぐるぐると頭の中を巡るだけだった。

「雨が止んだみたいね」母が窓の外を見て呟いた。
「ちょっと、屋上へ行って来る」
 そう言って僕は病院の屋上に上がった。小雨はわずかに残っていたものの、西の空はもう明るくなり始めていた。
 屋上には、車椅子の少年がいた。10歳前後ぐらいだろうか、およそ病とは無関係な年頃の少年は、無心に空を眺めているように見えた。
 その姿が、昔の自分にダブった。あの頃、父が立っていた少年の背後に、僕は立っている。僕は父と同じように煙草に火をつけ、深呼吸するように大きく吸った。少年は僕に気付いたようだったが、それでも空を見続けることを止めなかった。あの頃の僕も、ただそうやって、空とその向こうにある海を感じていたように思う。

 僕は結局、バスのデザインに赤い色を使わなかった。というより、一番最初に描いたラフスケッチをそのままトレースして、最終デザインとして提出した。白地に青い三角形を置いたシンプルなものだ。そこに、空を飛ぶカモメのシルエットをいくつかちりばめた。これ以上、足すことも引くこともできない、ギリギリのデザインだった。
 拍子抜けするほど、クライアントからの苦情も無く、デザインは正式採用された。ロゴの一部に赤があるから、それでいいだろうという事らしかった。バスはそのまま塗装され、既に現用として幕張の町を走っている。
 僕とバスとの3ヶ月の斗争は、そうしてあっけなく幕を閉じたのだった。

 病室へ戻ると、けたたましい電子音と、それまで見たことの無かった医者と看護婦の姿が僕を迎えた。母はベッドの傍らのパイプ椅子に背もたれたまま、ぼんやりと病室の天井をながめていた。
 父は、死んだのだ。
 その姿は、先刻と変わった様子がない。ただ、生きているという事実が失われただけだ。
 人の死とは、こんなものなのか。
 僕は、もしかしたら奇蹟が起るのではないかと思っていた。たとえそれが死の真際であっても、父に光が戻り、言葉が返って来て、僕と僕のバスを認めて欲しかった。父の笑顔を見たかった。
 僕はとても惨めな気持ちになって、いつの間にか嗚咽していた。
 せめてもの救いは、雲の切れ間から陽が差し始めて、ようやく空と海に青い色が戻って来たことだ。それは、魂を導くために天が与えた奇蹟なのかもしれなかった。そして見渡す限り、そこには赤い色が存在しなかったのだ。

 父よ、もし貴方の魂がいま空を飛んでいるのなら、見えますか、僕のバスが。
 このバスは上空からなら、巨大な青い凧に見えるはずなのだ。

[この物語はフィクションです]


KEISEI / Exclusive Jointed Bus


BACK