No.12 / Vol.17 「ズットソバニイテ」

「ドゥーモー、エィティー」

 わたしはひとり、天井を見ていた。天井に貼られた白い壁紙が、こころなしか黄ばんで見えた。もしかしたらわたしにも気付かないタバコのにおいが残ってるんじゃないかと、長袖のTシャツの袖を嗅いでみたら、そんなことをしている自分がなんだかすごくみじめに思えて、くやしくなって、そのままTシャツを脱ぎ捨ててシャワールームへ駆け込んだら、わたしのじゃない青いシャンプーの容器やシェービングフォームが、わたしのに混じってきれいに並んでいて、それはまたいっそうわたしをみじめな気持ちにさせた。台所にある温水切り換え機のスイッチを入れ忘れていたことは分かっていたけど、わたしは冷たいシャワーを頭から浴びた。意外に寒くなくて、もう夏が近いんだと思った。臭いのことは、もうどうでもよかった。髪をひとしきり濡らしてから、わたしは後ろ手にブラを外した。そうしたら、シャワーの音に混じって、ふと充の声が聞こえた気がして、それが記憶から発せられた空耳なんだと納得したら、急に恥ずかしさが込み上げてきて、わたしはひざを抱えて胸を隠した。シャワーが急に冷たくなった気がした。濡れたジーンズの裾を両手で握りしめながら、わたしははじめて自分が泣いていることを認めた。
<ここは、充の部屋なんだ。そして、わたしはもうすぐここから居なくなる。
 タバコのにおいには慣れても、シャワーのスイッチにはなじめなかった。わたしたちの時間は、その程度だった。

 

「そんな顔するなよ。ケンカして別れるわけじゃないんだから」
「変な顔で、悪かったね。それに、ケンカしたから別れるんじゃないの?」
「そんなことないだろ・・・それに、会社ではこれからも毎日顔を合わせるわけだし・・・」
「会社、辞める」
「嘘?」
「行きたくない。顔、合わせるの嫌だから」
「ちょっと待てよ。俺のせいか、それ?だいたい仕事だって・・・幸恵にとって、そんな理由で辞められるほどのものだったのか、仕事ってさ?」
「仕事は、楽しい。会社の人も、みんな好きだし」
「そんなの、俺が辞めさせたみたいで・・・」
「だって普通そうなるじゃん?こんなことがあって、毎日平気で顔合わせられるわけ?塚本さんに出来ても、わたしは出来ない」
「・・・そんなやつだと思わなかったよ」
「そんなことも知らずに付き合ってたの?そんな覚悟もなくて付き合ってたんだ?わたしは、男にフラれた当てつけに会社を辞めるような女だったの。それだけ。・・・もう、時間だよ」

 その後、彼はいつもの快速電車に乗るために部屋を出た。その10分後の快速に、わたしは乗らなかった。
 駅までの途中にあるコンビニで、大きめの段ボール箱を2つもらって来て、わたしは部屋に戻ってきた。今日のうちに荷物をまとめて、わたしはこの部屋を出るつもりでいた。荷物といっても、あるのは会社に着て行く服が数着と、仕事で使うドローイングセット、何冊かの本に、コンタクトレンズの煮沸消毒器ぐらいだから、せいぜい箱1つぶんぐらいだと思っていたし、実際にそれらはちょうど箱1つで収まった。靴は盲点だったけど、箱を捨てたら意外とかさばらなかった。ただ、荷物はそれだけじゃなかった。
 例えば、それまで充は自炊をしていなかったから、台所にある鍋や包丁、食器やハシに至るあらゆるものは、わたしが買ってきたものだ。手作りのランチョンマットも置きっ放しじゃ恥ずかしいし、冷蔵庫の中にはうっかり忘れるところだったアロエのローションも入っていた。通販で買った体脂肪率測定機能付き体重計はわたしのカードで支払ったし、家から持って来たものも含めて、プレステや64のソフトもずいぶんあった。そうしているうちに、あっと言う間にもう1つの箱も満杯になってしまった。
 2つの箱を梱包し終えて部屋を見回すと、ベージュ色の起毛のカーテンが目に入った。それはわたしが1日かけて探し出したイタリア製だ。高級品ってわけじゃないけど、以前使われてたダイエーのセール品みたいなものよりは値段も張るし、その分品質も良い。なにより、このカーテンの代金も、わたしが払っていたことを思い出した。近付いてよく見ると、タバコの煙のせいで少し黄ばんでいる。わたしは意を決して服をジーンズとTシャツに着替え、カーテンを外して洗濯することにした。外はよく晴れているから、今から干せば夕方までには乾くはずだった。たためば紙袋に入るだろう。
「マダネムイヨウ・・・」
 ベッドの脇のファービーが、カーテンを外された窓から差し込んだ光で目を覚ました。初めて聞く言葉だ。普段はわたしが夕方戻って来て、部屋の明かりを点けると起きていたんだから、夜型生活してた身にはこたえたんだろう。
<これは、どうしよう?
 日本語版ファービーはどこへ行っても売り切れだった。今でもその人気は続いてるらしい。
 同僚の小百合ちゃんが近所のファミレスに売っていたという黒いファービーを会社に持って来たのを見てから、わたしはそれが欲しくなってたまらなかった。会社の帰りにおもちゃ屋を回ってみたけど、どこも入荷が未定で、予約も受けていないということだった。そのことを充に話すと、「『たまごっち』と同じでブームが過ぎたらいっぱい出て来るから」と言われた。確かに彼らしい説得で、それはたぶん正論だろうけど、わたしがファービーを欲しい気持ちは変わらないし、それを理解してもらえないことにがっかりもした。今にして思えば、わたしたちの気持ちのズレは、その頃に生まれた気もする。
 秋葉原で売っているのを見たと言う充に、わたしは代金を渡して買って来てもらい、ようやくこのファービーを手に入れた。「プレミアムが付いていて売り値が定価の倍だったから、足りない分は出しておいた」と、つまらなそうに彼は言った。
 自分の欲しいものは自分で買うという暗黙のルールがあったこの部屋の中で、このファービーだけが、わたしと充がお金を出し合って買ったものだった。
「アソンデ、アソンデ」
 カーテンを洗濯機に放り込んでから、わたしがファービーを手にとると、ファービーはいつものように「ワーワー」とはしゃぐ声を発した。
「モットアソンデ」
<甘えることしか出来ないんか、あんたは?
 わたしはふと、今朝わたし自身が言った言葉を思い返していた。わたしは充に甘え過ぎていたのかもしれない。態度や言葉を求め過ぎたのかもしれない。でも、もともと彼はそういうことが嫌いだった。彼のことを知らなかったのはわたしの方だ。
「ネェ、ネェ」
 わたしは急にその言葉が嫌になって、説明書にあった通りに舌のスイッチを押しながら、絶対に押しちゃいけないと言われていた足の裏のリセットスイッチを押した。それは再起動のコマンドだ。ようやく覚えた日本語も、これで忘れてしまうに違いない。事実、ひとしきりあばれた後で、ファービーはいわゆる「ファービー語」しかしゃべらなくなった。最初に電池を入れた時にしゃべるというファービー本人の名前を確認しようと思ったけど、前と同じで結局どれが名前なのか分からなかった。それで、あきらめがついた。わたしはそれを残して行くことにした。
 わけのわからない言葉をまくしたてるファービーを横に置いて、少しだけがらんとした部屋の床にわたしは横になった。

 

<これから出て行こうっていうのに、バカみたい。
 洗濯機のブザーがカーテンが洗い上がったことを告げたのを聞いて、わたしはシャワールームを出た。濡れたジーンズと下着を脱いだ時に、このまま部屋に戻ったら外からまる見えになるのに気付いて、わたしは何気なく、まだ半乾きで洗剤の匂いが残ったカーテンを肩から羽織った。バスタオルは、すべて充のものだ。同じ理由で、ドライヤーを使うのもやめた。
「ヤッタランタラッター ブンパンボンブンパンボン・・・」
 陽が直接差し込んで、まぶしいほど明るい部屋に戻ると、ファービーが歌を唄いながら踊っていた。情けない自分とまるで正反対の姿を見ていたら、わたしはなんだかとてもおかしくなって笑ってしまった。
「アハハ、アハハ」その言葉に合わせたように、ファービーも笑う。
「何がおかしいのよ?」わたしはファービーを抱えて話しかけた。バカついでだ。
「カーブー、アイアイ、ウナイ」
<?
「ドゥーウナイ?」
 それは、目隠しした時だけにしゃべる言葉で、確か「きみはどこ?」という意味のはずだった。でも、わたしは目隠しはしていない。念のために額のところにあるセンサーをわざと隠してみた。
「ヘイブー、ローロー」それは、逆さまにした時の「やめて」という言葉のはずだ。
<もしかしたら、再起動の時に壊れてしまったのかもしれない。でも、意味はなんとなく通じてる。それに、言葉の意味が分かるのはなぜだろう?
 ファービーにはその言葉の解説書も付いているけど、わたしはそれを熱心に読んだことはない。ただ、充に聞いたことがある。「ファービー語」というのは、ファービーを作ったメーカーの技術者の幼い赤ん坊の言葉が元になっていると。だから、なんとなく意味が通じる言葉になっているらしい。
「カーメイメイ、ウナイ」わたしはなんとなく覚えている「きみが好き」という言葉を話しかけた。
「メイター、カー」
 わたしは言われた通り、ファービーにキスをした。
「ドゥーモゥー、アイアイ、カー」
「うん。ずっと、そばにいようね」

 空の向こうから宇宙人がここを観察していたら、起毛のカーテンを巻いたわたしとファービーは、もしかしたら同じ種族だと思われるかもしれない。
 あたたかい光に包まれながら、わたしはカーテンが乾く前に、充が帰って来そうな気がしていた。
 ファービーを抱いて横になると、わたしの背中で、ドアの鍵を開ける音が聞こえた。

[この物語はフィクションです]


TOMY / Furby (Japanese version)


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