No.16 / Vol.18 「雨の牢獄」

◯覚醒後6日経過

 たっぷりと湿度を含んだ空気が、閉ざされたこの部屋にも充満している。唯一外の世界へとつながるはずの、重く厚みを感じさせる鉄製の扉に穿たれた、ほんの小さな風取り穴から入り込んで来るのだろうか。色彩の乏しい空間に、ほんのわずかに色を添えるように、そこにだけ錆が浮かんでいる。
 部屋には、ここが何処であるかを知るための情報が一切存在しなかった。
 向かって左側に鉄製の扉、正面にはバケツほどの大きさの、透明な円筒型の水槽らしきものがある。水槽には何らかの機械装置が取り付けられ、それには小さな液晶パネルがあって、常に何かを表示しているようだった。にも拘らず、水槽の中には何も見えず、それが液体で満たされているのか、空なのかすらも分からない。右側に置かれた机の上に小さな電気スタンドがあって、点りっぱなしの点灯管はこの空間で唯一の光源であったが、光量のせいで照らされる部分は限られていた。
 あとは何もない、暗い闇と同じだ。
 見ていてもつまらないので、眠ることにする。

◯覚醒後17日経過

 部屋の外で、おそらく雨が降り続いていることが、音で分かる。カビ臭いコンクリートの壁や床から伝わって来る不規則なリズムが、俺の身体の気管のあたりで音に変わるのだ。そして昼夜すら定かでないこの密室においても、この長雨は容易に今が梅雨時であることを想像させる。そういえば、ひと頃に比べてだいぶ暖かくもなった。
 これぐらいのことは難なく思考することができるのに、なぜ俺は「じぶんが何者であるか」を理解することができないのだろう。
 俺は今、身体を完全に拘束され、そのために五感を限定されたまま、この部屋に閉じ込められている。
 いつからなのか定かではないのだが。

◯覚醒後44日経過

 俺には、記憶があった。
 それらは断片的なものであったが、いくつかをつなぎ合わせると、人格めいた主体、つまり俺自身の情報が確認できた。
 それによると、俺は名を蓮沼豊といい、年令は36歳で、一つ下の妻めぐみと、2歳になったばかりの息子、亮がいる。住まいは静岡市だが実家は沼津市にあり、地元の高校を卒業と同時に静岡市内の警備会社に就職した。
 もともと俺にはこれといった目標や、将来に生かせる技能があったわけではない。農業共済に勤める父から譲り受けたアユ釣りという趣味も、いつの間にか面倒になっていた。小学校から十年間、地元の柔道場へ通っていたことで、かろうじて有段者という資格は持ち合わせたものの、より己を鍛えて高みを目指すことはしなかった。無論、そのおかげで就職できたことは想像に難くないが、仕事は工場や倉庫街の夜回りで、生きがいを覚えるようなものではない。
 妻のめぐみとは、6年前に、会社の上司の勧めで見合い結婚した。何の取り柄もない、平凡な女だった。共働きのせいでお互いの生活時間がずれ、関係は冷えていたわけではないが、決して暖かくもなかった。
 俺は、そういう、つまらない人生を送っていた「ニンゲン」だった。
 そんな俺も、息子の誕生で人生が変わった。妻は妊娠を機会に会社を辞め、俺も夜勤の数を減らした。組合のローンで静岡市郊外に3LDKの分譲一戸建てを購入し、妻の知人の紹介で、憧れだったランドクルーザーも手に入れた。実家に置きっ放しになっていた釣竿を取り寄せ、息子と狩野川でアユを釣る将来を夢みていた。

◯覚醒後61日経過

 愛しい息子の顔を、どうしても思い出すことができない。
 息子は妻に似て、細面に一重まぶただ。その「知識」はあるのだが、具体的な「イメージ」を頭の中に結ぶことができない。もちろん、妻の顔も。いや、俺には「ニンゲン」という生き物のイメージそのものが、焼けこげたように欠落しているのだ。
 それだけではない。俺はすべての「生き物」の姿を思い浮かべることができない。鳥や獣、例えばトンビやイヌといった名称は記憶にあるのだが、それがどういう「かたち」を成していたか憶えていないのだ。「鳥は飛ぶ」「犬は噛み付く」という生態は理解できても、そのために必要な「翼」や「牙」の形状を、どうしても思い出すことができない。
 こうして、思うことばかりの日々を延々と送っている俺は、明らかに「生き物」であるはずなのに・・・。自分自身の姿を見ることすらもできない俺は、やがてその確信すらも薄らいでいくのを感じている。

◯覚醒後103日経過

 『そいつ』は俺の正面、約3メートルのところにある水槽の中に、突然現れた。
 それは5センチほどのごつごつした黒い塊で、切り出されたばかりの御影石のように見えた。しかし、水槽の底に沈んでいて動かなかった『そいつ』が、やがて脈動を始めると同時に形状を変化させ、細長いヒモ状になり、水槽の中を自在に動き回るのを見るに至って、俺は『そいつ』が生物であることを悟ったのだ。一方で、水槽には液体が満たされていること、そして俺自身もどうやら同じような水槽の中に存在していることが推測された。
 生きているとは、こういうことだったのだ。
 俺は、初めて見る生き物の「かたち」に歓喜した。そしてそれは、自由への憧れでもあった。心の底から、動きたいと願った。その時・・・
 俺の背中の方で、押さえられていた何かが弾けるような音がした。それは外から伝わる音ではなく、明らかに自分の内側から発せられたものだった。そしてまた1度、更に1度と、音の感覚は次第に短くなり、やがて唸りとなって俺の身体を駆け巡った。
 自由になりたい!もっと自由に!

◯覚醒後145日経過

 俺の身体は、俺が知る唯一の生物である『あいつ』と、大きさも形もほぼ同じになった。
 そして同じになったことで、俺も元々『あいつ』と同様の黒い塊だったことを知った。つまり俺は束縛されていたわけではなく、動ける身体を持たなかっただけなのだ。
 だが、それが結論であり、限界であった。
 俺たちは結局この水槽の中を動き回ることしかできないのだ。『あいつ』のは円筒形で、俺のは直方体であったが、そんなことはどうでもいい。俺たちはお互いを意識し合った当初こそ、動作によってコミュニケーションをはかろうともしたが、意志が伝わる兆しが一向に見えないので、俺はそのうちに動くことを止めてしまっていた。しかし、『あいつ』はまだそれに気付いていないようだ。知能が低いのかもしれない。
 少なくとも俺には生きる目的がある。俺は、俺の元の世界に戻らなければならない。息子と妻のいる世界、「ニンゲン」の世界へ、だ。
 だが、限界に達した今、俺には新たな疑問が沸き起こっている。
 『あいつ』は「ニンゲン」なのだろうか?

◯覚醒後199日経過

 眠りから目覚めると、『やつ』が消えていた。
 俺もうすうす気付いていたが、『やつ』の水槽に取り付けられた機械装置との接続部分にある小さな弁を、どうにかこじ開けて外に出たらしい。中を満たしていた液体もそのほとんどが流れ出てしまっていることから、おそらく装置には部屋の外へつながる排出口のようなものがあるのだろう。
 俺の水槽には、そういう装置の類いは見当たらない。だが、俺に焦りはない。むしろ『やつ』の失敗をあざ笑うこともできる。  なぜなら、『やつ』が「ニンゲン」でないことが明らかになったからだ。
 その手がかりは、俺がそれまで見ることのできなかった闇の中にあった。暗く沈んだ右側の机の脇の床に、妙な色のムラがあることに、俺だけが気付いていた。角度的に『やつ』には決して見ることができない位置にあったからだ。
 俺はそれからずっと、「暗視ゴーグル」のことを考えた。かつて会社で見たことのある、暗闇でも見えるという特殊な機械だ。その形はぼんやりとしてうろ覚えだったが、俺が求めたのは、その能力だけだった。そして遂に、俺はその力を手に入れたのだ。
 床に放り出されたそれは、大きさからして「人形」だった。「ニンゲン」の「かたち」をしたもの・・・。俺の不満の元であった「腕」と「脚」らしい部分があることが、はっきりと分かった。そして今度は、その「かたち」を手に入れるだけだ。
 それにしても、この雨はいつまで続くのだろう?

◯覚醒後312日経過

 部屋を出たそこは、下水道トンネルのようだった。俺が雨だと思い込んでいたものは、その天井からしみ出した地下水が、汚水へと滴り落ちるために生じた音だったらしい。
 1年近く続く梅雨があるものか。俺は思わず声を上げて笑ってしまった。
 頑丈に施錠され壁の一部と化していた鉄の扉を破壊するために必要だった巨大な身体は、狭いトンネルを通るのには少し窮屈そうだが、やむを得ない。俺は手足を派手に動かし、水音を弾かせながら、歩き始めた。出口が近くにあればいいが・・・。
 しばらく進むと、前方からゆっくりと近付いて来る光を感じた。それは、暗闇に慣れた俺の目にはひどく眩しかった。俺は踵を返して光を避けようとしたが、光はなおも迫って来た。
「おい、ここで何やってる?」
 その声に振り返ると、そこには、汚らしく弱々しい、ちっぽけな生き物がいた。
 腕と脚が、2本ずつしかない。それは、おそらく『ドブネズミ』だろう。「ネズミ」なんかに構ってる場合ではない。俺は一刻も早く、家に帰りたいのだ。息子と妻の待つ家へ・・・
 俺はネズミの2本の腕を前脚で壁に押し付け、左手で頭を掴むと、その頭と胴体をつなぐ細い首を一気に右手の爪で切断した。かん高い叫び声と血飛沫を上げて「ネズミ」はあっけなく絶命した。
 そういえば、「ネズミ」は言葉を話す「生き物」だったか・・・?

[この物語はフィクションです]


TOYBIZ / WEB TRAP "Monster Spider-Man"


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