No.23/Vol.22 「limited edition」

 十年ぶりに乗った水上バスは、記憶以上のスピードで隅田川を下っている。船尾のガードレールみたいな柵にひじをついて、スクリューから生まれては遠ざかって行く水しぶきを見ていると、まるで巨大な洗濯機の中で自分自身が洗われて、過去の自分が剥がれ落ちて行くような感覚にとらわれる。
 一瞬、暑さを遮って、巨大な影が私の頭の上を走って行った。新しい自分の始まりを祝うアーチ、あれは確か清洲橋だ。

『水上バスに乗りたい』
 私は今日、付き合って以来、初めて彼にわがままを言った。
 小学校の遠足で亀戸天神に行った時、水上バスに乗ったことを思い出したのだ。結局、その江東区営の水上バスは去年のうちに廃線になっていて、私たちは仕方なく電車で浅草へと向かい、そこから東京都観光汽船の水上バスに乗ることにした。彼はあからさまに渋々とそれに従い、浮かれている私とは正反対に、今も波に背を向けてベンチにだらしなく腰を下ろしている。
 そこまでして水上バスに乗りたかったわけじゃない。私にとって大事なのは、彼にわがままを言うことだったんだから。

「私のこと、愛してる?」
「何だよ、突然」
「なんか、分からなくなった。最近。私、利用されてるだけなんじゃないかって」
「利用って何だよ?わっかんねーなー」
「いいから答えて」
「そんなの、いいだろ。その、なんつーの?言葉なんかより大事なものって、あんだろうがよ」
「答えないんなら、これ、捨てるからね」
 私は、4時間も並んでようやく買った「アーデンクール」を取り出した。それだけが今の、私の切り札だった。

 彼、吉野くんとは、去年とあるライブの打ち上げの席で知り合った。私は専門学校の先輩に連れられて、先輩の彼氏がやってるっていうバンドのライブを初めて観に行って、そこに吉野くんは、知り合いのバンド仲間として参加していた。私よりも3歳年下の彼は、ちょっと見た感じ西武(当時は横浜高校)の松坂くんに似ていて、誠実そうな笑顔がちょっと良いかなって思っていた。
 その後、先輩を通じて改めて紹介された時には、もう私たちは「付き合う」ことを前提とされていた。もちろん、嫌いなタイプじゃなかったし、前の彼と別れてからずいぶん経っていて、誰かと付き合いたいと思っていたのは本当だったけれど、「なんとなく、いいな」ぐらいに思っていた人が、その場のノリで「恋人」に変わっていたことに、もう少し疑問を抱いても良かったのかもしれない。
 結果的に、私は吉野くんをすごく好きになった。でも、私たちの付き合い方は、どこかいびつなものになった。私は彼の言いなりになるだけだったのだ。
 主導権はいつも彼の方にあった。会う時間も、場所も、いつも彼が決めていた。観る映画も、食べるメニューも、すべて彼が選んでいた。髪型も、服の好みも、彼の趣味に合わせて変わった。本来なら人生で最も大きな岐路となる就職先も、彼に決められたようなものだった。
 私は彼の選ぶものが嫌いじゃなかったし、どちらかと言うと無趣味で優柔不断な私にとって、何でも決めてくれる彼の行動には頼りがいもあった。何より、それを彼が喜んでくれることがうれしかった。

 ところが、最近になって、私の中に一つの不信が生まれた。
<もしかしたら、私は彼にとって「都合のいい」だけの女なんじゃないか?
 そう思うのは、たいていオモチャ絡みのイベント会場で、だった。
 彼はフィギュアとかのオモチャに目がない。「限定品」と名が付くものは特にそうで、明日食べるお金が無くても、数万円もするプレミアの付いた限定品を平気で買ったりしている。
 そういうイベントは月に1度くらいのペースで行われていて、必ずと言っていいほど限定品が発売される。それを買うための列に、私は彼と一緒に並ぶのだ。だいたい開場の4〜5時間前、ひどい時には前日の夜から徹夜で並ぶこともある。炎天下や雪の降る中の行列も何度か経験した。
 それが嫌い、というわけじゃない。中学とか高校の頃は、コンサートのチケットを手に入れるために友達と何度も徹夜で並んだりしたし、元々気が短い方じゃない私にとって、文庫本が数冊あればそれくらいの時間は苦もなく過ごせた。それに、バイトとバンド活動で忙しい彼と一緒に過ごせる時間は楽しいものだったし、彼は私の身体を気づかってもくれる。長時間に及ぶ行列の時には、椅子やおやつも用意してくれたのだ。
 けれど・・・

「何のマネだよ、一体?」
「先月も並んで買ったよね、金色のロボコンとか。私ね、あれ、ちょっと欲しいなって思ってた。お金払うから、あれ、返して」 「あれか・・・あれは、ないよ、もう。友達に売った。どうしても欲しいって言うから」
「だって2個あるでしょう、自分の分と?私の買った方は?」
「だから、2人いたんだよ、欲しいってのが」
「ふうん。それじゃあさ、こないだのハーレーケン、私の友達が買えなかったって電話かかってきたの。あれならあるよね?」
「ああ、あれも、無いかもな」
「え?だって、6個もあったんだよ?私、フロアの子にも頼んで押さえてもらったのに・・・」
「いいだろ、そんなの。無いものは無いんだよ。そのうち、どっかの店から流れて来んだろ、どうせ?」
「・・・やっぱり、そうか。全部、売っちゃうんだよね、そうやって」

 私は、彼の部屋に、苦労して買ったはずの限定品が何一つ無いことに気付いていた。彼は「大事なものだから別の場所に保管してある」と言っていたけれど、1Kのアパートの家賃でさえ滞らせがちな彼に、別の部屋を借りる余裕があるはずもないことくらい私にも分かる。
 でも、私は彼のそんな小さな嘘からは目を背けていられた。たとえそれを追求したところで、私には何のメリットも無かったし、むしろそういう態度をかわいいとさえも思っていた。
 ただ、私が学校を卒業して大手の玩具チェーン店に就職すると、彼の態度は微妙に変わってきた。それまでは一緒に買うオモチャのお金は彼が払っていたのだけれど、いつの間にかそれは私が払うものになっていた。それに加えて、彼に頼まれて買い置きしておく店の商品も、支払いはすべて私もちだった。それでも私には、ライブのためにお金を貯めなければならない彼の手助けになるのなら、苦にならなかったのだ。
 彼がバイトを、ましてやバンドさえも辞めていたという事実を知るまでは。

「これ、もしここから川に放り投げたら、拾いに行く?」
「やめろよバカ。なに考えてんだよ?」
「うそだよ。もったいないもんね。拾っても、売れなくなっちゃうもんね。これ、いくらで売れるの?5千円くらい、そんなもんでしょ?」
「売らないよ。せっかく並んで買ったんだろ」
「本当はさ、オモチャなんて好きじゃないんだよね。『限定品』が好きなんだよね、高く売れるから」
「なぁ、今日のおまえ、なんか変だぞ。どうしたんだよ?」
「ふふ、優しいね。優しかったよね、すごく。でもそれ、私の勘違いだったかもしれない・・・。大きな嘘を隠すために、小さな嘘でずっと騙し続けてただけなんだよね、本当は。だから、これから先のこと考えると、なんかもう耐えられないかもしれないなって、ちょっと思っただけ」
 私は手にアーデンクールを持ったまま、鉄棒に昇るように柵の上に身を乗り出した。上半身が大きく揺れ、脚は完全に床から離れてピンと伸びた。
「冗談やめろって!」
 彼はとっさに立ち上がって、私のお腹を抱きかかえるようにしてその揺れを止めた。彼の顔は真剣だ。でも、周囲を気にして恥ずかしがっているだけのようにも見える。
「自殺するとでも思った?そんなことしないよ。私だって、私の人生、大事にしたいもん」
 その時、私は彼の左手が、私の持っているアーデンクールにかけられていることを見逃さなかった。
「じゃあそれ、手切れ金」
 私はアーデンクールから手を離すと、もう一度振り帰って柵の上に昇った。今度は、揺れの勢いが止まらなかった。止めようとする力が、何も働かなかった。細い鉄パイプの上に両足をかけて、私はその勢いのまま大きく飛び跳ねた。

<もうすぐ秋だもんなぁ。
 私は自分を取り囲む水の冷たさに、そんな呑気なことを考えていた。沈んだらどうしようと思う暇もなく水面に浮かび上がった私は、大きく息をしたせいで鼻と口から大量の水を飲んで咽せた。目の前に灰色の海藻みたいなものが浮いていて、余計に気持ち悪くなる。耳鳴りのように聞こえるサイレンの音は、もしかしたら私のせいかもしれない。
 気が付くと私は、器用に脚をバタつかせて顔だけを水面から出していられた。
<あぁ、これが立ち泳ぎってやつか。
 誰に教えられるわけでもなく、立ち泳ぎをマスターした私は、これからはそんな自分をもっと大事に生きていこうと思った。
 私だって、世界に一人、私しかいないんだから。

[この物語はフィクションです]


TAKARA / "Arden Cool" limited edition


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