No.24/Vol.8 「その瞳は天使に似て」

「可視光線という言葉はご存じですか?」
「と、おっしゃいますと・・・?」
「少し専門的な話になるんですが、人間が視覚できる光には限りがあります。これが可視光線と呼ばれるもので、我々の目が捉え、認識できる光の範囲を示しています。一方で、視覚できない光、例えば赤外線とか紫外線というものは、光という概念でなく、電磁波の類いになります。もちろんこれは機械を使えば測定することは容易ですが、生身の人間にとっては視認することは不可能です」
「・・・それがあの子の病気と、どういう関係があるんでしょうか?」
「結論から申しますと、お子さん・・・司くんは、その可視光線の範囲が一般と異なっていることが確認されました。具体的には紫外線領域側に広くなっているんですが・・・これは、眼球、視神経、脳、それに心理的側面も加味した上で出された科学的な結論です。ただしこれは極めて特殊な症例で、現在までに報告された例はほとんどありませんし、参考となるケースはどれも症状がまちまちで、医師団にも具体的な解決の糸口が判断できない状態です」
「先日の、手術の話は?」
「確かに網膜剥離の傾向はあります。ただ、それが直接の原因とは考えにくく、手術が改善の道とは私には思えません。正直なところ、試してみなければ分からないというほかありません」
「・・・でも、このまま放っておいても・・・」
「司くんにとって、いま最も必要なのは心理的なケアです。例えば・・・こんな例え方は間違っているかもしれませんが、水道の不調は、蛇口の修理だけでは済まないということです。水道管や水源、更には環境問題まで発展してしまうかもしれない。すべての不調をバランスよく改善していくには、時間がかかります。ただ、その前に、司くんの身体は限界を越えてしまうかもしれない。・・・彼は、まだ子供です。訓練することで、映像をより我々に近い感覚で捉えることが出来るようになるかもしれません。いや、むしろ我々よりも、正しいものを見ているのかもしれないですし・・・」
 母親はその後も何度か、手術による回復は出来ないかと尋ねて来たが、それが病院としての方針である以上、私にはそれをねじ曲げることが出来なかった。疲れ切った母親の姿には、ただ憐れみの念だけが思い起こされた。

 間宮司(まみやつかさ)がこの病院に入院して、2度目の梅雨を迎えようとしていた。確か彼がここに初めてやって来た日も雨が降っていて、私はこうして病院の屋上から、鉛色に染まった房総の海を見たように思う。
 原因不明の奇病・・・。主治医として彼を任された私は、正直言って途方に暮れていた。1年間に渡る様々な実験と検査の結果、そのアウトラインは徐々に見えつつあるが、まだその処置はおろか、原因すらも特定できていない。
 私の心には、今もあの時と同じように、空の色と同じような鈍く重い雲がのしかかっている。
 違うのは、今はこうして、彼と共に居るということだ。
 彼はこの風景を正確に見ることは出来ない。否、我々に、彼がどういう風景をそこに見い出しているか知る術がない以上、正確という言葉は正しくないのかもしれない。ただし、一般的な生活を営むことを正常と言うなら、それだけのことで彼の脳は正常に機能することが出来なくなってしまった。それほど、人の脳は繊細で脆く、また、融通がきかないものであった。
 彼は五体を満足に動かすことができなかった。言葉も話すことができない。幸いにも、こちらの言葉を理解することはできるため、ある程度の意思疎通は出来るのだが、彼の発する声はソプラノと言っていいほどかん高く、その声から彼の意志を聞き取るのは難しかった。それでも、こうして静かに車椅子に腰掛けていれば、彼は一見普通の11歳の少年に見えるだろう。ある1点を除いては・・・。

 ふと、空を凝視していた彼がこちらをふり返り、彼の金色に輝く瞳が私の視界に入った。医師という立場上、様々な症状の患者を目にしてはいるものの、その瞳だけはどうしても馴染むことができなかった。
 彼の外見上の最大の特徴、それこそがこの瞳なのだ。母親の話によれば、ある日突然変化したのだという。白眼の部分と境がはっきりしないため、一見すると全白眼のようだが、本来瞳がある部分は、色に例えるなら金色としか言い様のない、淡く、しかしはっきりと輝きを持った質感を有していた。
 その瞳が見つめているものは、私の背後にあった。一人の女性が、そこに立っていたのだ。
「すいません、お邪魔でしたか?」女性が口を開いた。二十代前半だろうか。まだ若いのだろうが、妙に落ち着いて見えた。
「いえ、構いませんよ。失礼ですが・・・」
「杉山先生に、母がお世話になっております、相田と申します」
「相田さんの・・・。そうでしたか。では、いつもいらっしゃっているのは・・・」
「姉です。私は東京の方に住んでいるものですから、ついつい忙しさにかまけてしまって。あの、付かぬ事をお伺いしますが、そちらのお子さんは?」
「彼は・・・」
 私が話そうとした瞬間、間宮司がそのかん高い声を張り上げて叫び始めた。彼の瞳は再び空へと戻っていたのだが、私が見たところ、その空には先程と何の変化も見られなかった。
「落ち着け、落ち着くんだ司くん!どうした?何があったんだ?」
 私は彼を車椅子ごと押さえ付けようとしたが、彼の興奮は止まらなかった。だが、よく見ると、彼の目もとには歓喜の表情が浮かんでいた。待ち焦がれていた誰かが会いに来たような、そんな風に思えた。
「そう、あれが天使なの・・・」
 いつの間にか間宮司の隣に立ち、同じように空を見上げて微笑んでいた女性−相田小百合はそう呟いた。

「こんな感じだったと思います」
 病院内のサロンで、相田小百合から手渡されたスケッチブックには、黒い人間のシルエットが描かれていた。ただし、頭と胸、そして腕と脚の一部は白く塗り残されたままだ。
「ここの、白い部分が良く見えなかったんですが・・・こう、ボウっとしていて。実際に、目で見たわけじゃないんで、ちょっとそこまでは・・・」
「いえ、これで充分です。充分、よく分かります。いや、正直言って、あなたような存在は、我々にとっても頼りになります。まさかあなたが、お母様と同じような力をお持ちでいらっしゃるとは・・・」
 私がそう告げると、彼女は少しうつむいて、困ったような表情を見せた。
 私の上司である杉山先生が担当する彼女の母親にも、同じような力−透視能力があったという。母親本人はそれを「鬼眼」、今で言う「霊視」と呼んでいたらしいが、要するに、第六感的にイメージを受けることができる超常能力のことだ。
 しかし、そのためか、母親は精神に異常を来たし、今は言語能力を失って、この病院に入院していた。彼女もその事を気に病んでいるのは明らかだった。
「すいません、場所を変えましょう。そうだ、彼の病室に来てくれませんか」

「これは・・・」
 相田小百合は、雑然とした病室内を見るだに、そうもらした。おそらく、この病室を見る人間は、必ず同じ反応をすることだろう。室内は色とりどりの玩具で散らかし放題になっていて、とても病室とは思えない。また、そこには玩具ばかりでなく、色セロファンや、ビンやコップ等のガラス製品も混じっている。
 私は、間宮司が眠っていることを確認すると、彼女を室内に招き入れた。
「気を付けて下さい。散らかっているように見えますが、彼にとっては、置かれているモノにも位置にも、意味があるらしいんです。ちょっとでもズレると機嫌を損ねてしまいますんで・・・」
 私は注意深く足を進めると、部屋の端にある洗面台から一つの人形を取り上げた。そこには最も多くの人形が飾られていて、どこかひな人形の段飾りのようになっていた。
「さっきの絵は、おそらく、これのことだと思います」
 私が彼女にそれを見せると、彼女も納得したようだった。それは20センチほどの可動人形で、全体が黒い透明なプラスチックで作られている。頭と胸に銀メッキが使われた機械を模した部分があり、人形はロボットのキャラクターであることが分かった。同僚の話によると、20年以上前に販売されていたものらしい。
「もともと、彼の父親のものだったそうです。いや、元・父親と言った方が正確なんですが。数年前に離婚されたらしいので・・・。たぶん、この銀色の部分が、光って見えたんじゃありませんか?」
「そうですね、よく似ています。でも、はっきりした事は、私には・・・」
「ただ、あなたは今ここで初めてこれを見た。それだけでも、彼のイメージを受信できたことは明らかです。どうでしょう?我々の力になっていただけませんか?」
「そんな、私が・・・それに、仕事もありますし・・・」
「お時間のある時で結構です。お手間は取らせませんし、お礼も考えます。・・・この子は、私たちの想像もつかないところで、苦しんでいます。私たちも、いや、医学も、彼を救うことはできないでしょう。どうか、手助けしていただけないでしょうか?」
「・・・・・」
 彼女の表情は、サロンを出る時からずっと暗いままだった。彼女の不安は、きっと彼女自身もまた、母親と同じ運命をたどるのではないかというところにあるのだろう。
「黙っていたんですが、さっき、彼はこう言った気がしたんです。『お父さん』と・・・。私ではなく、彼の父親の方が力になれるんじゃないでしょうか?離婚したとは言え、父親にかわりはないでしょう?」
「それは・・・無理だと思います」
「何故ですか?」
「彼の父親は行方不明で・・・実を言うと、窃盗の容疑で指名手配されているんです」
 私自身も、つい先日知ったばかりの事実だった。「指名手配」という異質な単語に、戸惑うのは当然だろう。
「・・・不思議ですね」
「えっ?」唐突な彼女の言葉に、私は虚を突かれた。
「どうして、ここにあるのは透明なものばかりなんでしょう?すごく、興味があります」
「私もです」
 私たちは、ブラインド越しに差し込む夕陽に照らされて、キラキラと光る室内を、しばらく見つめていた。

[この物語はフィクションです]


Strawberry Fayre / "ANDROID"


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