No.26/Vol.26 「retaliation」

 炎がまるで嵐の海のような轟音をたてている。その中に、時折なにかが割れるような破裂音が混じっている。消防車のサイレンや、やじ馬の喧噪もあったのだろう。けれど、ぼくには炎と、それが焦がすものの音しか届いていなかった。

 燃えているのは、確かぼくの部屋だ。
 ぼくの部屋、ぼくの好きな空間、ぼくの好きなものたち。
 ぼくの思い出、ぼくとマヤの思い出、ぼくの布団、マヤのスニーカー。

 誰かが僕の腕を掴み、後ろへ下がれと叫んでいる。ボウっとひときわ激しい熱風が巻き起こり、見覚えのあるグリーンのカーテンが一瞬にして炎に包まれるのが見えた。その裏にはMacもあるはずなのに、それは見えなかった。誰かの腕に引きずられるように、ぼくは数メートル後ずさって、そのまま勢いでしりもちをついた。ふと手を回した左の太ももに、いつの間にかタバコ大のガラスの破片が突き刺さっていた。僕の前を数人の消防士が行き交い、地面に巻かれたガラス片が踏み付けられて、その度に不規則な音をたてる。
 やりかけの原稿はどうなったろう?放ったらかしの食器はどうしよう?手を付けていない缶詰や、叔母から送って来たドーナツは?買ったばかりのパーカー、まだ半分も読み終えてない文庫本、撮りだめしてあるビデオ、『ザブングル』のLD-BOX、テレビ、トースター、冷蔵庫、手紙、卒業アルバム、時計・・・
 見知らぬおじさんが、座ったままのぼくを揺り動かしている。誰かを呼んでいる。<誰を探してるんだよ、こんな忙しい時に?
 すると、白衣の男がぼくの目の前に腰を下し、ガラスの刺さったままの左足をさすった。
 激痛と同時に、声が響いた。「大丈夫か、あんた!?おい、しっかりしろって!」僕の肩を支えていた、見知らぬおじさんの声だった。
「いやだ、いやだ、いやだ!」
 ぼくは白衣の男を押し退け、四つん這いのままで炎に近付く。ぼくの大事なものが詰まった炎のそばへ。ひとつひとつの名前を呼んで、ひとつひとつ確かめながら助けてやりたい。でも、口からは「いやだ」という言葉しか出て来ない。手も足もこわばって、なかなか前に進めない。
 あまりの騒音に、自分の言葉すら確認できない。ただ、ぼくは、ぼくの頬がさっきからちっとも乾かないことには気付いていた。

 ぼくのおもちゃたちが燃えているのだ。

「不審火の疑いがあります」
 初めて見る「刑事」と呼ばれる人たちは、テレビで見るのと少し違う感じがした。ぼくと話している中年の方は、はげ上がっていかつい人相に似合わない黒いナイロンのジャンパー姿で、もう1人はぼくより少し年上のようだが、上下で色も材質も違う背広とズボンを身に付けていた。
「現場検証の結果、火元はお宅の台所の裏手、つまり共有部分の廊下に面した壁であると推測されました。実際には燃え跡から採取した木片を分析した上での結果待ちになりますが、現場の状況から見て、まず間違いないでしょう。火元と思われるところには、おそらく火をつけるのに使用したと思われる、古新聞の燃えカスが発見されています。新聞は、とられてないですよね?」
「・・・はい」
 ぼくの答えを聞くと、中年刑事は若い方の刑事に小さく相づちをうった。
「あの・・・」
「何か?」
「お金、の事なんですけど・・・その、ここの入院費とか・・・」
「あぁ、その事でしたら心配いりません。保険が100%適用されますんで、警察病院での治療や入院は無料です。もし、別の病院へ移ることを希望されるんなら話は別ですが。その必要はないでしょう?」
「あの、保険って?」
「?・・・えぇと、国民健康保険は?」
「すいません、入ってないというか、払ってません」
「失礼ですが、親御さんは・・・?」
「いえ、いません」
「そうですか、困りましたねぇ。私も専門じゃないんでよくは分かりませんが、病院の事務の方と一度話をされてみて下さい。それと、退院前に一度現場で実況見聞してもらう事になります。まぁ難しいことじゃありませんから。その折は迎えが来ますんで、よろしくお願いします」
「あの・・・」
「何か?」
「・・・いえ、結構です。いや、あの、家は、どうなったんでしょう?」
「申し訳ないですけど、あんまりショックを与えるなって医者の方から言われてるんで、私の口からはちょっと・・・。前に来た消防官もそう言ってませんでしたか?」

 それだけで、もうかなりのショックだった。
 その後、実況見聞の前に再びその刑事たちは現れ、現場で撮影したというやじ馬の写真を百枚以上も見せられた。
 結局、その写真の中にはぼくと面識のある人間は写っていなかった。というより、ぼくはおそらく同じアパートの住人の姿を初めて知った。パジャマ姿のまま焼け出され、ぼくと同じように途方に暮れている姿だったのだけれど。

 車を降りて見上げると、アパートはまるでツートンカラーに塗り分けられたように、2階部分だけが黒く染まっていた。2階にある2部屋のどの窓からもガラスが失われているのだが、その内側も、ただ黒い壁があるだけのようだった。
 ぞくっと、背筋に冷たいものが走った。何か見てはいけないものを見てしまった気がした。
「マスクをしてもらえますか」
 若い方の刑事が、ポケットから真新しいマスクを取り出した。風邪の時に使う、ガーゼでできたものだ。
 2階へ上がる階段の入り口には、ロープで柵がこしらえてある。雨が降ったわけでもないのに、階段はわずかに濡れていた。それが消火の際の放水によるものだと理解するのに、少し時間がかかった。火事が起ってから、今日で4日目になるはずだ。ただ、ぼくにとっては、それが数週間のように思えていたからだ。
 階段には細かいガラス片が散らばっているのか、歩く度に足の裏でジャリジャリと音がした。その音を聞く度に、足取りが重くなっていくのが分かる。部屋から逃げ出す時、ぼくはとっさに2階の窓から飛び下りたため、両足首にねんざを負っていた。ガラスの突き刺さった左足には、今も包帯が巻かれている。ただ、足が重いのはそのせいじゃない。
 ぼくは、事実を目の当たりにするのが怖かったのだ。
 何もかもを失ったという事実を受け入れるのが怖かったのだ。

 ぼくの部屋の金属製のドアは、へしゃげたように変形していた。ノブが取り外されているのを見ると、外から壊されたのかもしれない。そのためにドアは少しだけ開かれていたのだが、先導した刑事が力を込めてもなかなか開き切らなかった。
 部屋の中が明るいのは、窓と屋根の一部がすっかり抜けているからだ。明るいのに、辺り一面には黒以外の色がない。
 台所に靴のまま上がると、足の裏に何故だか妙にベトベトした感じがあった。警察の用意してくれた真新しいスニーカーのせいかと思ったが、その理由はすぐに分かった。床に落ちていた黒こげのペプシ缶のいくつかが破裂した跡を見つけたからだ。おそらく山と積まれたペプシのケースの段ボール部分だけが焼けてしまい、缶が散乱したのだろう。
 ぼくは流しの脇に置いたボトルキャップの入った箱をとっさに探したが、その周囲もがらりと様相が変わっていて、それを見つけることが出来なかった。
 ぼくの後ろに続いていた中年刑事が、無言のままぼくの肩に手を置いた。そのはずみで、まだ何も納得できていないのに、ぼくは大きくうなづいてしまう。
「ビニール製品が多くあったようですが・・・」マスクのせいでこもった声で若い刑事が、居間から尋ねて来た。
「そうですね、あったと思います」
 ぼくはその言葉に急かされるように居間に入った。そこには、まだぼくの知っているぼくの部屋の痕跡がわずかずつ残されていた。飾り棚に置いてあった人形はどれも原型を留めていたが、よく見ると部分的に熱で変形している。スポーンのスペルキャスターが、隣に置いてあったデビルマンやベノムと一体になって、わけのわからない形状になっている。超合金魂のマジンガーZは無傷のようだが、煤けて光沢が失われている。ブラックバージョンだったと思われるかもしれない。
「大量のダイオキシンが検出されたらしいです。まぁ、問題にはならないと思いますが・・・」
「あのぅ・・・」
 不意に聞こえたその声は、刑事たちのものでも、ぼくのものでもなかった。
 声の方を見ると、ひしゃげたドアの向こうに、郵便局員らしき男が立っている。「四葉さんのお宅は、こちらでしょうか?」
「そうですが」中年刑事がぼくの代わりに答えた。
「海外からのお届けものなんですが、関税をお支払いいただくことになってまして・・・」
 ぼくが戸惑っていると、中年刑事が警察手帳を見せながら「いくらだ?」と尋ね、その金額1100円を代わりに支払った。用心深く郵便局員から箱を受け取ると、まるで爆弾でも入っているかのように箱の表面に耳を当てた。
「心当たりありますか?」
「海外からですよね。・・・あります。たぶん、スノーグローブって、ガラスでできた玉みたいなやつだと思います」
「開けてもよろしいですか?」
 ぼくは黙ってうなづいた。
 それは、先日海外通販で注文したナイトメア・ビフォア・クリスマスのスノーグローブだった。去年のハロウィンの時期に発売されたものだが、当時バイトを無くしていたぼくは涙を飲んでいた。先日、インターネット上の通販サイトでようやくそれを発見したぼくは、少しだけプレミアのついたそれを迷わず注文していたのだ。もちろん、ペプシの買い過ぎでお金にゆとりはなかったのだが、このチャンスを逃すと、もう二度と手にすることはできないと信じていた。
「なるほど・・・」中身を確認した中年刑事はそう呟くと、パッキングの発泡スチロールから慎重にスノーグローブを取り出し、ぼくに手渡してくれた。
 1年もの間ずっと欲しがっていたものが手の中にあるというのに、当然のことながらぼくには素直に喜べなかった。
 ふと見ると、台座の裏にネジが付いている。ぼくは知らなかったのだが、どうやらオルゴールが内蔵されているらしい。無意識のうちにネジを回すと、聞き覚えのある曲が流れて来た。ぼくの大好きな、不思議なメロディ。

 "This is Halloween, This is Halloween..."

 スノーグローブだというのに、水の詰まったガラス球の中には、コウモリを模した黒い紙片が混じっていた。それが今は、いやおうなしに黒いススを連想させる。
 もう、すべてが、悪い冗談のようだ。

[この物語はフィクションです]


Disney Store / "Nightmare Before Chiristmas" snowglobe


BACK