No.27/Vol.27 「ナツメ」

 ナツメが死んでしまった。

 今日の正午過ぎ、家の前の雑草だらけの側溝で遺体は発見された。躯には轢傷の跡があり、車かバイクに轢き逃げされたことが明らかだったそうだ。
 なじみの獣医に頼んで、遺体は一通りの洗浄作業を済ませたという。帰宅したオレが小さな檜の棺桶の中に見たものは、まるで中身をすっぽり抜かれたように、ぺしゃんこになった毛むくじゃらの塊でしかなかった。
 オレが中学の時に故人となった祖母の仏壇には、今年の正月に親戚一同が集まって、祖父の米寿を祝った時にたまたま撮られたナツメの写真が遺影として添えられていた。ナツメを特に可愛がっていた当の爺さんはその前を動こうとせず、本当の身内を失ったような悲しみに暮れていた。
 ナツメは家人の誰からも愛され、惜しまれてこの世を去った、幸せな猫だった。

 オレは最初、お袋が通いのパーマ屋からもらって来たというその子猫を愛することができずにいた。
 やや青みがかった黒い毛並みの良さから「これはきっと血統の良い猫に違いないわ」とでも思ったのだろう、生まれた3匹のうち、とびっきり「上等そうに見えた」らしいオスの1匹を、こともあろうに肉まん2個と引き替えに譲ってもらったのだと、お袋は自慢げに語っていた。
 ところが、それはすぐにメスだということが分かり、お袋はすぐにオスのと交換してくれと頼みに行ったのだが、生まれたのが結局全部メスだったことも分かり、「それならいらん」とつっぱねかけたが、「吐いたツバ戻しなさんな」とパーマ屋の店長と口論になった末、仕方なく連れて戻って来たのだった。おまけに自慢の黒い体毛には成長するにつれて灰色の斑点が目立ち始め、純血種ではないことも一目瞭然となった。
 だが「出来の悪い子供ほどかわいい」とは良く言ったもので、避妊処置やらなにやらで大枚叩いたせいもあってか、お袋はその猫=ナツメを次第に溺愛するようになった。もともと動物好きだった親父は言わずもがなだったが、気難しい舅たる爺さんも何故かナツメだけは素直に可愛がるようになり、我が家はまるでナツメを中心に再び結束したような印象もあった。
 ただし、オレ以外は、である。
 なぜならオレは貧乏ながらもいっぱしの玩具コレクターであり、コレクションとペットというのは本来相容れないものだからだ。
 特に猫はいけない。
 例えば犬であれば、部屋に入らないとかモノに触らない程度のしつけは簡単に覚えることができる。さすがに古来から人と共に暮らして来た動物だけのことはあって、遠慮というか、そのへんの節度がしっかりしている。
 ただ、猫にはそういったしつけがほとんど通用しない。盲導犬や介助犬はいても、盲導猫や介助猫がいないことを見れば明らかだ。そんな事を猫に頼る人間もいないから、逆に「猫の手も借りたい」なんて言葉も出て来るのだろう。もちろん、ある程度はしつけることは可能だろうし、実際にナツメもトイレや寝床といったものはお袋によってしつけられていたのだが、少なくともオレの授けた常識は通用しなかった。
 まずは侵入。
 ナツメはこちらが扉を厳重に閉めておいても、平然とどこからか部屋に潜り込んでは、我がもの顔で荒らしてしまうのだ。考えられる隙間をすべてコレクションで覆い尽くし、窓すらも見えなくなった部屋にもかかわらず、猫はワームホールをすり抜けて侵入して来るのだった。閉じられた空間に猫が発生するとどうなるか?答は簡単だ。細かい抜け毛が散らばってアレルギー症状を引き起こすのだ。もちろん、オレもそうなった。会社ではそうでもないのに、家に戻ると途端に頭痛が始まり、髪の毛やパンツの中がひどく痒くなる。猫につくダニやノミの類いも理由として考えられるだろう。痒さのあまり精神がいらだち、そのストレスのせいで生え際が退行し、額が広くなった。大問題である。
 次は器物破損。
 こともあろうに大事に保存してある玩具に悪戯をする。畜生にとっては何の価値も無いただの遊び道具にしかすぎないだろうが、オレにとっては命よりも大事な限定ミクロマンであったり赤箱のサンタジャックであったりANAリカだったりするのだ。しかもナツメには妙なクセがあって、ブリスターパッケージのような透明なモノを見ると、ツメを研がずにはいられない性格らしく、おかげでエレクターに置いてあったスポーンやスターウォーズのカードフィギュアは、軒並みパッケージにキズを付けられたり、ひどいのになると破かれたりまでしていた。泣く泣く50号ワームヘッドスポーンをルーズ品にしたことを思い出すと、今でも腹痛が起るほどの空しさに襲われるほどだ。
 叱れば叱ったで牙をむいて来る(傷害)し、飼われている身分という意識がまるでなく(不遜)、あまつさえ何か気に入らないことがあると、仕返しとばかりにわざと部屋でウンコしたりする(報復)。おまけに気に入らないことに、その怒りと悲しみも、家人にしてみれば「猫のやったことだから仕方ないじゃない」とだけで済まされてしまう(不起訴処分)。
 このように、猫はコレクターの天敵とも言えた。知性は多分にあるらしいのだが、それは人類を敵に回しても辞せずというワガママな本能的資質に支配されていて、まぁとにかくナツメとオレとは相性が悪かった。
 だからオレは、避妊処置でぶくぶくに太った体を、事があればボコボコに蹴ったりしていたし、左右で微妙に色味の異なる鋭く尖った瞳と目が合うにつけ、ガンを飛ばし合ったものだった。

 ここまでの経緯を知る人間なら、実はオレがナツメを殺めた張本人であると思うかもしれない。正直言って、殺さないまでも、どうにかしてナツメを追い出そうと策を練っていたことはある。ただ、それもあの事件の起こる前の話だ。
 オレはナツメに命を救われたのである。

 その日、朝刊の刷り上がりを確認することもなく退社したオレは家路を急いだ。とにかくその数日前から頭痛が治まらず、その日は特にひどくて吐き気ももよおしていた。
<悪い風邪でも貰ったのかもしれない。明日は出社前に病院に行くしかないか。
 まだ寝静まった家に戻り、今にも倒れそうになるほどフラフラの足取りで階段を昇ると、オレの部屋の前にナツメがいた。
 ナツメは嫌味な目つきでオレを見据えたまま「ニャア」と鳴いた。
「なんだよこら、オレは疲れてんだよ、どけ」
 オレはいつものようにナツメのぷくぷくにたるんだ腹のあたりを蹴り付け、扉を開けるのに邪魔なその体を退かそうとしたのだが、その日に限ってナツメはしぶとくそこを動こうとしなかった。よほどの覚悟があるかのように、牙を剥いて「ニャア」とまた鳴いた。
 疲れ果てていたオレは我慢の限界に達していた。普段は無意識に手加減も加えているのだが、もう容赦するゆとりも無くなっていた。オレは片足を振ってナツメの注意を引くと、そのまま両手でナツメの躯を持ち上げ、階下へ投げ付けたのだ。猫科の動物の能力をとっくに失っていたナツメは、途中で一度壁に激突した挙げ句、不様なまでに着地に失敗して背中から踊り場に落下した。
 気味の悪い濁音の混じった鳴き声を聞きながら、オレは急いで自室へ入ると、鍵をかけて大きく息をついた。扉の板越しに、まだナツメの鳴き声が聞こえていた。
 ちょっとした達成感にオレは微笑んだが、部屋の灯をつけた瞬間、それすらもどこかへ吹き飛んでしまっていた。
 オレがコンプリートを我が天命と誓ったケナー社製「バットマン・レジェンド」シリーズの最後にして最強レアな逸品。先日ようやくオークションで手に入れたばかりの『エナジーサージ・バットマン』が、無惨にそのパッケージを引き裂かれて床に転がっていたのだ。見覚えのある爪痕は、ナツメの仕業に間違いなかった。
 嘆きが思わず声になって出た。「畜生!」<そうだ、畜生め、畜生!畜生!・・・
 だが、オレのこの殺意は、いつの間にか失われていった。オレはそこで気を失ったのである。

 妙な物音が聞こえた。北海道に住んでいた頃、屋根に積もった雪が日に照らされて溶け落ちる音のようだった。もう朝なのか確認したいと思ったが、どういうわけか身体が動かない。手足はおろか、まぶたさえも開かなかった。頬に硬く冷たい床の感覚が戻ってくる。そしてまた、音。窓を塞ぐように置いた飾り棚が揺れて、床がきしむのが分かった。でも身体は一向に動かない。それどころか、自分の意志とは正反対に、意識が遠のいていくのを感じていた。
 バリン!というガラスの割れる音と共に、外の冷たい空気が一気に部屋へ流れ込んだ。次の瞬間オレはうなじの辺りを鋭い刃物で切り付けられるような痛みを感じ、反射的に身を大きくよじった。すると間もなく、耳をつんざくような轟音と振動がオレを包んだ。

 物音を聞き付けてオレの部屋に駆けつけて来た家人の話によると、床に転がったオレの身体の奇跡的とも言えるほどすぐ脇に、窓際の飾り棚が倒れていたらしい。そしてもっと異常だったのは、自らの身体を投げ出して窓ガラスを割り続けるナツメの姿だった。家人が察して窓を開け放つまで、ナツメはそれを止めなかったという。

 翌日、奇跡的に外傷の無かったオレは、後に『ABPA』であると診断された。略さずに言うと『アレルギー性気管支肺アスペルギルス症』という。どちらにしても理解しづらい病名だ。つまり、オレは病気だったのだ。
 元々あった喘息の傾向に加えて、真菌(オレの場合はキノコの一種だったそうだ)が気管支の一部に根付き、それが元で起こった炎症で呼吸困難に陥っていたらしい。また、それ以前に意識を失いかけていたことから、どうも部屋の密閉が強すぎて酸素欠乏状態にあったのではないかと推測された。
 ナツメの今までの行動が、すべてそれを避けるためだったのか、誰も分からない。だが、お袋をはじめとする家人の総意としてはそういうことになった。定かではないにしろ、オレはナツメに命を救われたらしい、のである。
 1週間も入院生活を送ると、オレは嘘のように元気になった。
 退院後、十数年ぶりに家人総出で那須高原へ療養がてら旅行することになった。足腰の弱った祖父のために、親父はワンボックスカーを借りて来た。もちろん、助手席に座ったオレの懐には、傷だらけになったナツメがけだるそうに横たわっていた。

 その旅行から、まだ1ヶ月と経っていない。
 祖父が席を譲ってオレに焼香を勧めた。何故だかあまり気乗りしなかったのだが、オレは素直にそれに従った。鈴を打ち、掌を合わせると、無意識のうちにオレは床に付くほど頭を垂れていた。
「結局、こいつもお前に構いっきりだったな」祖父がオレの背中で、どこか淋しそうに呟いた。
 仏壇に飾られたナツメの写真を見ていて、祖母の名前が「なつみ」であることを思い出した。それは祖父の精一杯のロマンティシズムなのかもしれないが、今ではオレにとっても大きな意味を持っている。

[この物語はフィクションです]


Kenner / "Legends of Batman" Energy Surge Batman


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